次回ライブ

■次回ライブ■
2017年2月10日(金) 三軒茶屋グレープフルーツムーン
[tomorrow's planet]

出演:白倉新之助と踊る子守唄/MONGREL

open:19:00 / start:19:30 前売¥2500(D代別途)

2016年6月23日木曜日

「新しい国とTシャツとわたし」後書き(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

というわけで、実際2005年に書いた台湾ツアー日記はここから先、THE WALLでの1976とのライブ、高雄で行われたSay Yes To Taiwan Festivalの模様へと続いていました。

更新に時間がかかったという理由もありますが、2016年の今年、台湾ツアーへ出かける前日に、人生初の台湾ライブの模様をアップするタイミングを迎えたということ、そこには何かしらの意味があるように思いました。

明日からのツアーで初の台湾ライブをする人もいる。
何度も台湾でライブをやって、喜びも失望も味わった人もいる。
同じ仲間内にいながら、どういう人生の岐路を経たのか、それぞれに違うバンドで台湾に辿り着く人もいる。

全ては、実際に台湾で音を出してみて、自分自身がどう感じるか、それだけなのでしょう。
だから、今回連続掲載したこの台湾日記は、とりあえずここで終わりです。
この続きは、今年のツアーを経験した皆が、それぞれ自分たちの言葉や音で語り始めることでしょう。

自分を含めて、皆がこれからどのような道を進んで行くのか、とても楽しみです。

最後に、今回台湾ツアーを実行するきっかけは、2005年の話にも登場した「小雷」という女の子が、留学先の日本で出会ったスペイン人のCHEMAと結婚式を挙げることになったことです。20代の半ばで出会い、日本、台湾、他色々なところで、お互いに心の友として青春を過ごしてきた仲間の結婚式です。2人を祝福することが、僕の本当の目的です。

そうではあっても、せっかく台湾に行くのだからライブを企画したいという、ややもすると図々しい感もある僕の想いを、快く受け入れてくれた小雷とCHEMA、本当にありがとう。
そして心より結婚おめでとう。2人の晴れ姿をとても楽しみにしています。

それから、今年のツアーでも何から何まで色々と手配協力してくれた林雨霖、10年前から今まで、そしてこれからも永遠に感謝です。すぐ、会いましょう。



「新しい国とTシャツとわたし」⑦(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

21時になって会場に戻ると、中は感じた事のないような熱気に包まれていた。
何人かは地下社會に降り立つことができず、階段の踊り場辺りで中の様子を伺っているような状態で、僕らも入り口付近に居場所を確保するのがやっとの混雑具合だった。
殆どは僕らの楽器が心細そうに持ち主を待っているステージに顔を向けていて、前方の客は後ろの聴衆の為に、床に詰めあって座っていた。
開演までのあと30分の間を、僕達はそこで過ごすことが出来そうにも無かった。
この状態を後ろから眺め続けていたら、きっと逃げ出したい気持ちになってしまうだろう。

勿論観客の多くは1976のファンであるのだろうが、その1976が認めたという一応の形式になっている、日本からやってくる聞いた事も無いバンドにも多大な期待を寄せてくれていたのは明らかだった。
階段脇に置かれた、グッズ販売用の小さなテーブルにCDやTシャツ等を並べると、そこを日本から僕らをサポートしに来てくれた友人達に任せて、僕達は一度外に出る事にした。
逃げだしたということなのかも知れない。
いずれにせよ空気を、あの特殊な地下の社会ではなくて、冷静さをもたらしてくれる地上の空気を、僕達は必要としていた。
会場の対岸にある歩道に立って、入り口を見ていると、まだ地下に降りていこうとする人々が目に入った。
心を決めなければならない。
僕達はこの国に遊びにきた訳ではない。
少なくともお金を払ってあの階段を降りていこうとする彼等の前では。
幾度か深呼吸をする。
この界隈に広がる、台湾独特の臭気が僕の肺を満たす。
気付くと雨空はまた、僕らを試す様に、その手を休めて見下ろしていた。

再び観客達の後方に集った僕達5人に林雨霖が、本日分のチケットの売り切れを告げた。
それは同時に、これ以上何かを待つ必要が無い事を意味していた。
林雨霖が僕の目を見て何度か頷く。
僕ら5人のメンバーはお互いの目を見合わせると、密集する観客の間を割ってステージへ向かった。
その5人の迷惑な行動が、何を目的としたものかはすぐに理解され、それは会場全体に広がった。
一瞬にしてそれまでにあった倦怠感の薄い膜が切り裂かれ、全ての人が振り返り、ステージへ向かう僕らを目で追った。
僕はその誰とも目を合わせないように心掛けて、ゆっくり前へと進んでいった。
先を進むメンバー達の存在が頼もしく見える。皆同じ様に不安を抱えていたに違いないけれど、そうであるが故に、かつてない程に固い絆で結ばれて居た。
この特別な境遇を同時に体験する5人が団結しないで、誰と力をあわせようか。

そんなメンバー達に導かれるようにして、僕は何とかステージと称される、この人口密度にして不自然なまでに空っぽな更地に辿り着いた。
楽器達はこの視線の中に残されて居たことを非難するように僕らを見ていたが、抱え上げて調弦してみると、この雰囲気に満更でもないようだった。
僕は聴衆の方を向いてチューニングしていたが、まだ顔を上げず、目線も合わせなかった。
形として向き合いながら、コミュニケーションを成立させないことは、こうして可能なのだ。
それは今まで日本で行ってきた多くのライブで、本番中にも関わらず体験してきた状態だった。
僕達のライブは沢山の人にその非対話性を指摘され続けてきた。
思えば日本だろうと、台湾だろうと聞いてくれる人は何処の国でも同じで、今感じている様な熱気を孕んでいたのかも知れない。
それに向き合おうとしないで閉じ籠っていたのは、ただ単に僕達が臆病なだけだったのだ。
僕は、また後ろを向いた。
まだ聴衆とのコミュニケーションは成立していない。
そして水を口に含みながら、各メンバーの顔を見た。
皆、見た事もないくらい活き活きした表情で目線を交わしてくれた。
普段大人しい彼等の顔が上気しているように見えた。
ここがどこであるかはもう問題ではなくなった。
後は僕が彼等と聴衆の会話の開始に、合図を出すだけなのだ。
深く呼吸して前を向く。僕の忠実なマイクに歩み寄り、ゆっくりと視線を上げる。
さあ、誰が相手でも同じ。会話の始まりは挨拶からだ。

「ターチャーハオ」。僕の口から出た中国語の「皆さんこんにちは」は、思ったよりも太い音で鳴った。
直後に、信じられないことに、大きな歓声が僕ら5人を包み込む。
その瞬間に全ての歯車が噛み合い、動き出した。
その動き出す音が聞こえて、僕達5人は全員笑顔になった。
自分達が一生かけて聞きたい音の存在を悟った。
全ては対話の上に置かれなくてはならない。
そして音楽は、対話を円満に、簡潔に、直感的にする為の道具で在りさえすれば良い。そう思った。
今となっては、言葉の通じない事こそが有り難かった。
僕らと、彼等が用いることが出来るのは表情と、音しかない。
それは人間がどれ程進化しようとも、嘘の力の及ばない領域なのだ。

後は簡単な事だった。
その日の地下社會には一つの嘘も存在し得ない。
だから僕達は有りのままの下手くそな演奏を見せるだけだったし、日本語の歌詞をそのままの思いで歌うだけだった。
「考える人」「新しい国」「人形使い」とギター3本の曲を終えると、そんな僕達の事を、彼等もとても気に入ってくれたようだった。
体育座りで窮屈ながらも、笑顔でリズムを刻んでくれる人がいた。友人同士耳打ちしながら何枚も写真を撮ってくれる人がいた。
「笛」を終えて、僕は再びギターに持ち替える合間に、彼等の事を写真に撮った。驚いた事に、後に見たその写真の中に、僕らとの対話を拒否している人は誰一人居なかった。
全ての目線が僕らに意志を持って向けられていて、音楽を聞く事を望んでいてくれたのだ。
そこからは、リハーサル不足の曲が続き、危ない場面も幾度となくあったが、ギター3本だけで演奏した「少年と思想家」が何となく締まらない感じで終わっても、盛大な拍手が僕達を後押ししてくれた。

残すはあと2曲だった。
「誓いの歌」は、確か約1年前に書いた曲だったと思う。
僕らはその頃、某レコード会社とのやり取りの中で、疲弊して、やるべき事を見失っていた。
その時指摘されていた事には、納得のいく事もあったし、反発すべき点もあったが、問題はそのどちらをも、僕達が上手く実践できなかったことであり、音楽は目的を見失い、彷徨い始めてしまったのだ。
結局そのレコード会社との関係はその後2ヶ月程で終わりを迎えるのだが、その暗中にあって何とか自分を見失わないようにという気持ちで作ったのが、この曲だった。
僕達は誰でも、何をしても構わない。
それによって多かれ少なかれ生じる軋轢に対してどう向き合うかという時に、僕は自らの歓びにその判断を委ねようと、その時誓ったのだ。
そして1年後の台湾で僕は歓びの中にいた。
鍵盤の位置は低くて相変わらず不格好だったが、僕らと共に苦しんできたこの曲が、かつてなく鮮明に広がっていくのはバンド全員が感じていた。
僕らは今迷わずに、やるべき事をやれている。


とうとう、最後の曲が「The United Forces」だった。
コーラスのパートに関しては皆最後まで不安がっていたが、僕にはリハーサルで掴んだ感覚が残っていた。
あれ程緊張を持って臨んだ舞台が、終わる頃には物足りなさを感じていることを不思議に思いながらも、辿々しい英語で、最後の曲であることを告げると、Eメジャーのコードを最初にフライパンにひく油の様に、薄く会場全体になじませた。
そして最初のワンフレーズを歌い出すと、なんと会場の後方から歓声が上がった。
この曲は林雨霖在籍時のquizmasterからの定番だった。
それだけに彼にとっても思い出深いものだったのだろうし、昔作ったこの曲の音源を彼があの「ノルウェイの森」等に置いてくれたお陰で、この曲だけは少し知っている人が居たということであろう。
おそらく林雨霖とその周辺を囲む人々が、最後になったこの曲を待ってくれていたのだと思う。
僕はその歓声を聞いて、思わず笑みが溢れそうになったが、少なくともイントロの間は笑顔で歌うべき内容では無かったので、より一層集中して演奏することでそれに応えようと努めた。
そしてバンド全体が躍動感を持ってそこに加わった。

後の事は、興奮の中にいて良く状況が整理できていない。
僕らは予定通り10曲を終えて、本当に安心したし、聞いてくれた皆に心から感謝の気持ちで一杯だった。本当に十分素晴らしい体験をさせてくれたのに、彼等はさらにアンコールまで要求してくれた。
まさしく生まれて初めての体験だった。僕らは熱に浮かされるように、「光の輪」を演奏した。
アンコールがかかった時点で、今日の聴衆への感謝を表せる曲はこれだろうと、5人共思ったようだったし、何より、姿は見えないが確かに林雨霖その人と分かる声で、この曲の名前がリクエストされたのだ。
だからこの曲は気が付いたら始まっていたし、気が付いたら終わっていたような感覚が残っている。
ただ曲を演奏し終えた時の充実感は、過去に起こった何とも比べようの無い程素晴らしいものだったことは間違い無い。
再び終演の挨拶をすると今度は只温かい拍手が会場を埋めてくれた。
最後は全てが計算されたお伽話の様に美しく幕を閉じた。
そして明るくなった(ように感じた)会場に僕達の安堵が溶け出すと、1976のメンバーが駆け寄ってきてくれて、大麻が、おそらく林雨霖か小雷に今聞いてきたのだろう日本語でこう言ったのだ。「スバラシイ〜」。
彼の優しい笑顔を見て、僕は本当に今日のライブの成功を実感した。
その言葉は昨晩から本当に待ちわびていた台詞だったし、このツアーが本当に素晴らしいものになると、告げてくれるものであった。
そしてこの時に彼が自分の鞄から外して僕にくれた1976のバッジは、東京でこの文章を書いている僕の目の前に飾られて、今もあの時の興奮に連れ戻してくれるのだ。

2016年6月16日木曜日

「新しい国とTシャツとわたし」⑥(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

2回目に降り立った地下社會は、暗く湿っていて、賑わいも無く、今だ微睡みの中に居るかのように、重い動作で僕達を受け入れていた。
あるいは僕達がその様だっただけかも知れない。

リハーサルは16時からだったとはいえ、前日までの疲労を引きずる僕達と、今朝も陽が昇るまで起こされていたであろうこの箱には、共通した沈鬱さが覆っていた。
おまけに天気は一向に変わる気配をみせなかったので、危うく僕達は、こちらの様子を伺う店のスタッフの事も気に留めず、その場に座り込んで無駄に時間を逃がしてしまうところであった。

机や椅子が奥に寄せられた会場は、一昨日の雰囲気とは変わって、従来のライブハウスの趣きを感じさせる。
スタッフが黙々と作業を進めているが、如何せん段取りが分からない。
PAを努めてくれる女性と何とかコミュニケートすると、未だスピーカー等の準備をしているから待っていてくれとのことだった。
この女性は元「LADY BUG」のギタリストであり、今は自らのインストゥルメンタルバンド「VARO」を率いて活動している。
丁度この3時間後に、彼女のバンドの曲がイギリスのインディチャートの上位10曲に入ったという朗報が飛び込んで来て、林雨霖なども大いに喜んでいた。
彼女のバンドのCDは後に聞く機会があったが、シカゴ一派の影響も感じさせるクールさを持ちながら、難解すぎないリズムが聞くものを引き摺っていくような、しっかりした作品だった。
こうした音楽にありがちな、音色やフレージングに実験色を強めるばかりで、芯の強さを忘れてしまうといったような、そんな愚かな過ちは犯すはずも無かった。
この国の人々が音楽をやるのには確固たる理由がある。その時点で日本の音楽シーンの何倍も洗練されている。

遅れて到着した小雷に相変わらず通訳をしてもらい、会場の準備も整ってきたようなので、リハーサルを始めることにした。
とはいえ、何といっても非常に狭いステージなので、機材の配置を調整して立ち位置を決定する頃には、もう17時を回っていたように思う。
キーボードスタンドに至っては、本体の重さを支えることが出来なかったので、手ごろな高さ(といっても何とか演奏できるという意味で、普段あり得ない姿勢にさせられたのは写真を見て頂ければ明らかだと思う)の椅子を2つ使って、その上にキーボードを設置することになった。
キーボードに角度をつけて置く事は出来ない。故に、ピアノの曲では完全に横顔で歌うことになった。
それでも配置が決定し、各楽器が音を出し始めると、前日のスタジオ同様にメンバーの顔も上がるようになってきた。
演奏中もそうだが、僕らは余裕の無い時に下を向いてしまう。
臆病になって隠れるというよりも、各々が状況を改善しようと努めすぎて、思考の森に迷い込んでしまうのだ。
悪い時のスタジオでも、ライブでも。しかし今日はそれを危惧する必要は無さそうだった。
皆、使い慣れない機材に閉口し気味だったが、自分達の曲の事を思い出せば、そこには音色や環境に左右されない絶対性を追求した結果があり、どんな状況であれ、それを演奏することは僕達に自信を与えてくれるのだった。
僕らは今までに幾度も幾度も話し合って、やっと最低限の威信を掴み始めたのだ。



各々の楽器の大体のバランスが整った。
日本でならここからPAの指示の下、ドラム、ベース、ギター、ボーカルといった順で音量のチェックをしていき、了解が出たところで曲を合わせながら調整する。
けれども、今この状況に出しゃばってきた不必要な沈黙は、彼女にではなくて、僕らに何かを求めていた。
こちらもその頃には台湾の雰囲気に少し慣れてきていたので、日本的な細かい段取りが無いだろう事は、すぐに分かった。

僕らはなんとなしに曲を始める事にした。
ギター3本のバランスを整える為に「新しい国」を何回か演奏した。
僕の足下に置かれたスピーカーが唯一のモニタースピーカーであり、後は生音でバランスを整えるしかない。
つまりは広いスタジオの端に寄って演奏しているのと同じ事で、ジャズバンドの様な形態ならまだしも、電気で幾らでも音量の調節ができてしまうロックバンドにとっては、どこで何を正しいとするかが非常に難しい判断となった。
一応信じられるのはドラムの音量という事になるのだろうが、僕らの直ぐ目の前で背中を向けている、聴衆用のスピーカーから聞こえる音か、足下のモニターからの音なのか、はたまた壁に跳ね返って増幅されただけの音なのか、いまいち良く分からない。
何しろ僕らのステージは高低差という特権を与えられていないものだから、そこは客席と言ってしまってもよかった。
だから一つの楽器が音量を調整すれば、雪崩式に、他の楽器も調整を余儀無くされた。適切なものが何なのか分からない。
ボーカルはこれ以上モニターしようとするとハウリングを起こす程に返ってきているのだが、僕の耳には不鮮明だ。

それでも何とか外と中のバランスを計りながら、ギターの曲を幾つか試し終えると、時間はもう18時半位になっていた。既にリハーサル開始時刻から3時間少し経っている。
徐々に集まり始めた他のスタッフや1976のメンバーに対しても、少々申し訳ない様な気分になってきた。
このリハーサルは僕達だけの為に行ってくれたものであり、ここをホームとして演奏し慣れている1976や、他のバンドはいつもリハーサルなど行わないという。
僕達は未だギターのバランスにも納得のいかない点があったが、それを切り上げ、急いでピアノ曲の準備にかかった。
これも日本の会場の様に一々音出しなどすることなく、打鍵すれば直ぐに音が鳴るようになっていた。
例の、膝上辺りの高さに設置されたキーボードの前に座り、完全に真横の壁を向いてマイクに声を通してみる。

すると、さっきまでの不鮮明さが嘘の様に、僕の耳に僕の声が届いた。
僕が鍵盤の準備をしている間に一度メンバー達はステージを離れたので、勿論他の楽器が鳴っていないことも理由なのだが、ここにバンドが加わっても、聞こえなくなることは無いという確信が持てるくらいの、絶対的な感覚だった。
ピアノの音も思った通りの感覚で僕のタッチを耳に届けてくれていた。
僕は本当に覚えていないのだが、知らない内に「The United Forces」を最初から歌い始めていた。
リハーサルではいつも省略する弾き語り部分を終えて、バンドが飛び込んで来る筈のイントロ部に差し掛かって、僕はこの曲を一人で演奏していることに気付いた。
それほどに心地の良い音響が僕を包んでくれていた。
おそらくこれは他のメンバーも感じられなかったものではないだろうか。
ちょうどあのポイントに、地下社會に広がるエネルギーの集合場所があったのではないかと思わせる、そんな体験だった。
ワンコーラスを終えて、間奏も半ばに差し掛かると、他のメンバーもその雰囲気を感じてくれてか、各々の楽器を奏で始めてくれた。
僕はこの歌を歌う事があまり得意では無かった。
3年くらい前に作った曲なのに、未だに自分の所にやってきてくれていない気がしてしまっていたのだ。
一人で練習する時も滅多に歌った事は無い。それが、何故かここでは歌いたい衝動に駆られていた。

そこには林雨霖や大麻などが居たからかも知れない。
仲間との強い信頼があったからかも知れない。
あるいはこの場所の魔法かも知れない。
しかし、いずれにせよ僕はこの瞬間にこの憎たらしい曲を自分の物にした気がしていたし、コーラス環境の問題で、代替案の「和音」をやり終えた後も、「The United Forces」に対して得た感覚は塗り変わらなかった。
そういう訳で、僕個人としては最高の形でリハーサルを終えることができたが、その頃は既に19時を回っていたかと思う。


またしても小雷が教えてくれた素敵なラウンジカフェの様なところで、僕達は最後の一息を入れる事にした。師大路の猥雑な道端にあるとは思えない、西洋と東洋が嫌味なく溶け合った、落ち着いた素敵な店だった。
店員の女の子は清楚で可愛らしく、僕らに中国語を秘密の花園での合言葉のように思わせる。
案内された、座敷き席の様に靴を脱いでくつろげる個室は、ライブを2時間前に控えた僕達にとって、全てはあるべき所にある、と言わんばかりの正しい空間だった。
ここを選んだ小雷の手腕はそれこそ見事としか言い様が無いが、そんな彼女に手伝ってもらって、グッズ販売の中国語案内を作る。
MC用の中国語を教えて貰うと称して、関係のない話題を繰り広げる。
その中で他のメンバーはどうか分からない。
しかし僕は明らかにナーバスになっていた。
ここまでは林雨霖、小雷に手伝って貰って、なんとか日本でのライブに近い手順でやってくることができた。
しかし、後1時間少しすれば僕らは、言葉の通じない同世代の若者達の前に、この5人だけで立つ事になるのだ。
しかも日本での様に30分をやり過ごせば、こちらが傷付いて終わるだけ、という生易しい状況ではない。
僕らが勝負を求められるのは1時間強であり、明日以降2本のライブがあり、その機会を用意してくれた1976の体面もある。
つまりこれから始まるのは完全なる本番で、疑い無く求められるという意味ではプロフェッショナルとしての仕事であり、言葉の壁を越えるという意味において、完全な音楽でなければならない。
一昨日の晩に感じたあの震えが、また僕の芯を揺らす。
手が冷たい汗に包まれて、拭おうとしても拭えない。
何か話をしなければと思う。話題は何でもいい。
兎に角僕に息継ぎをさせてくれる何かを。

その時小雷の携帯が鳴った。
電話の主は地下社會に居た林雨霖だった。
小雷が本領を発揮するように早口の中国語で何かを喋っている。
すると徐に彼女は電話を切り、こちらに向き直って、確かにこう言ったのだ。
「会場の外にはもう沢山行列が出来てイマスから〜、もう少しデ戻ろう」
僕の胸を打つ音が強く、速くなる。

2016年6月15日水曜日

「新しい国とTシャツとわたし」⑤(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

扉の男は近くで座っていた小雷と身振りで会話を交わすと、曲が終わるのを待っておもむろに入ってきた。何の事はない、林雨霖だった。

僕らが22時を少し過ぎてしまった事を詫びて、急いで片付けを始めようとすると、彼は1976のメンバーがまだ集合していないから、もう少し演奏して良いと言った。
僕らは1度それを断ったものの、本当に彼等はまだ姿を現さないようだったし、林雨霖の真意にはやはり、1年振りとなる僕達の演奏を見ておきたいという気持ちがあったようだ。
何となく空気が1曲だけ演奏する事を強制していた。そしてそれは1曲だけでよかった。
ただそうすることが僕らの過ごしてきた1年を、彼に正確に伝えるものになる筈だったからだ。
僕達はもう1度「その男〜」を合わせた。もうそれはリハーサルでは無かった。
林雨霖は音楽が伝えるべきものが何かを知っている。
僕らはその時点で1番新しいこの曲を、正直に演奏するしか無かったのだ。
林雨霖はそれを立ったままで真剣に聴いていたが、曲が進むに連れて、テンポに合わせて足を動かし始めた。それで十分だった。



片づけを終えた僕らに、楽器をスタジオに置いたまま、何処かで時間を潰していてくれと、林雨霖は言った。
明日の打ち合わせも兼ねて、そこでメンバー同士の顔合わせをしようと。勿論承諾して、部屋の隅に楽器をまとめていると、少し浅黒い顔をした実直そうな青年が、開かれたままになっていた扉の所に立っていた。「Hello」と、低く芯の強さを感じさせる声で彼は僕達と正対した。
当然彼には我々が何者なのか分かっている。林雨霖が彼を僕達に紹介した。
1976のヴォーカリスト、阿凱(アーカイ)とのことだった。彼の存在感は独特で、部屋の空気を一変させてしまうような威光を放つ訳では無いのだが、瞬間的に親しみを覚えてしまう何かが彼にはあった。
林雨霖も彼も同じ1976年生まれで、僕らより年上な訳だが、林雨霖に対して感じる友人としての親しさよりも、兄としての近しさとでも言うべきだろうか、兎に角一瞬にして僕ら一人一人から信頼を勝ち取ってしまうような才能を、阿凱は持っていた。

個人的に印象に強いのは、僕が小雷から教えてもらったばかりの下手くそな中国語の挨拶で歩み寄ると、「Nice to meet you」と握手しながら英語で返してくれたこと。
僕の挨拶が何とか通じた事、そしてそれに対する返答の意、これを最も分かりやすいシンプルな形で表現する為に、日本語の出来ない彼にとっては、この言葉しかあり得無かったのではないかと思う。
瞬時にこの言葉を選び、誠意を持って応えてくれた彼の姿勢は、常に他人に対して開かれていて、飾らず、疑わない、勇敢な態度だった。
僕は彼に既に少し尊敬の念を抱いていた。会って1分足らずの間に。

僕達は彼等の練習が終わるのを待つ為に、何処かで珈琲でも飲んでいることにした。
小雷は相変わらずのエネルギーで、何か見に行きたいものはあるか、と訪ねてきたが、日中を熱心な観光客として過ごし、息付く間もなく練習に臨んだ僕達は、既にかなりの疲労を蓄積していたのだ。
それならば良い所を知っているという彼女の提案にまかせて、僕らは街へ繰り出すエレベーターを待った。その時、僕達の後ろを横切ろうとする者に気付いて小雷が驚きの声を挙げたのだ。

まず目に入ったのは、黒と白のボーダーシャツに正確に納まった、愛くるしい顔の男子だった。
彼は、中国語と日本語で僕らの間を取り持とうと捲し立てる小雷の顔と、成りゆきを見守る僕達の顔を交互に見遣りながら、大きな目をパチクリさせていた。
「ベースの子喬(ツーチャオ。ちなみにチャオを上げて読まないと、豚の足という意味に聞こえてしまうらしい)です」と小雷が僕らに紹介してくれた。
彼も彼女の説明を聞いて納得したらしく、僕らは互いに握手を交わした。
少し戸惑っているようにも見えたが、決して内気な訳では無さそうだった。
後に思えば、そんな一見大人しそうな彼との距離感が、僕らと1976との親密さを計る物差になっていたようで面白い。
最終的に2つのバンドの仲がどうなったかは、子喬が我々のBBSに書き込んでくれたメッセージを読めば、お分かり頂けると思う。

その横に並んだ眼鏡をかけた青年を、小雷は「ナナロクのギター」と簡単に紹介した。僕と上窪は同時に「ジョニー!」と声を挙げた。
林君の日本滞在時から彼の事はよく話に聞いていて、曰く「台湾のジョニー・グリーンウッド(radioheadのギタリスト)」との事であった。
1976は彼と阿凱が中心となって結成したバンドであること、彼のパフォーマンスが本家顔負けの激しいアクションであることなどを、折に触れて林雨霖が話してくれていたので、僕らは見ず知らずの彼の事を勝手に「台湾ジョニー」と名付けて呼んでいた。
その癖が実際に彼と対面した喜びで、思わず出てしまったのだった。

彼はそう呼ばれた事に「ジョニー・・・」と呟いて、困惑した表情を見せたかに見えたが、直ぐに僕らの言葉の意味する所を汲んだらしく、照れ笑いで応えてくれた。
器の大きさを感じさせる、人の良さそうな優しい笑顔だった。
そういえば彼の本名を僕らは未だに知らない。
皆は愛称として「大麻(ダ−マ)」と呼んでいるらしいが、彼が大麻を吸っているわけでは無いと言うのが林雨霖の弁だった。
いかにも真面目そうな彼の仕種を見ていると、それは本当なのだろうが、彼も自身の赤いテレキャスターの裏に大麻草のステッカーを貼っている。

近くで休息して、もう一度スタジオに戻ると、部屋の外から1976の演奏を少しだけ聞く事ができた。
ある曲のイントロだけを試しているようで、全貌は分からなかったが、ギターの音色の素晴らしさはスタジオから漏れ出す音を聞くだけでも良く分かり、英国ロックに対する愛情が部屋を満たしている様だった。
僕達はまだ彼等の音楽がどういうものか知らないし、彼等も僕らの事を知らない。
しかし全ては明日、嫌でも曝されてしまうのであり、彼等同様僕達も、その場所でそれ以上の詮索をするのは止めておこうと思っていた。

それに何故かは分からないが、既に彼等は僕達の事を信頼してくれているように思えたのだ。
もう一度対面した彼等は、やはり第一印象のままの、好感の持てる佇まいでそこに居た。寸前まで1976としての連帯を確かめていた筈なのに、もう各々が外部に対して開かれた存在だった。
楽器を片付けながらも、言葉の通じない僕達がそこに居る事を平然と迎え入れてくれている様だった。
その後1週間ばかり、彼等と過ごす時間を持った訳だが、如何なる時も、彼等は誰に対しても決して排他的になる事はなかった。
全ての事を自分達に関わりある大切な出来事として捉えていたようで、そんな彼等の大らかな気質がなければ、僕達は1度だって満足な演奏など出来なかっただろう。
彼等の目や、声や、仕草全てが僕達に限り無い安心感を十分すぎる程に伝えてくれた。本当にそう思う。

その後、用があるという阿凱と子喬と別れて、林雨霖と大麻、そして僕達一行は、今回のツアーポスターを作ってくれたデザイナーの経営する喫茶店に出かけたが、その店の穏やかな雰囲気にほだされて、僕達は打ち合わせをするでも無く、只ひたすらにささやかなるライブ前夜の宴を繰り広げていた。
最初こそ明日の会場の様子を林雨霖や大麻に聞いてみたりしたものの、その話題も直ぐに立ち消えて、あとはひたすら思い出話や、世間話に終始した。
皆、なるべくライブの話は避けているかのようでもあった。
ホテルに戻り、おそらく遅く起き出すであろう僕らには、今が最後の安心出来る時間であったのだ。
他愛も無い話に必要以上に笑い合い、誰一人時間を気にしようとする者はなかった。それでも、誰かが置いてあったファミリーコンピューターのゲームを始め、その画面を眺めるのにも疲れた頃には、僕らは揃って自然に帰り支度を始めた。

各々に丁度良く理性を失える程に疲労していた。あとは眠りに落ちるだけだった。明日の事など考えずに目を閉じる。
僕らをホテルまで送ってくれた林雨霖の車を、激しい雨が打ち付けた。
本当に、日本でも年に一度あるか無いかという位、激しく、激しく打った。
雨のカーテンの向こうに街灯がぼんやり浮かんでいた。
沈黙を埋めるのはもはや思考では無く、雨音だけだった。
明日も雨が降るという。
僕は地続きになりそうな今日と明日の間に明確な線を引かなくてはならない。

2016年6月11日土曜日

「新しい国とTシャツとわたし」④(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

初めて入ることになった外国のこのスタジオを、分かりやすく説明する方法がある。
日本におけるカラオケボックスにギターとドラムを置いて想像してもらえれば、それが僕達の置かれた状況であった。
薄いガラス扉は、およそ音楽スタジオには似つかわしく無い、軽薄なノブで開閉できるようになっていて、申し訳程度に中央部だけがセロファンによって視線の侵入を拒んでいたが、中の音は軽々と扉を越えて外に漏れだしていた。まさしくカラオケと同様に。
個人練習用の小部屋が幾つもあり、その奥にパーティールームよろしく、バンド練習用の若干大きめの部屋が用意されていた。

僕達が通された一番奥の部屋は、ガラス張りで外界に開かれていて、ビルの五階に位置する僕らの視点からは、それなりに活気の残る交差点と薄汚れたネオンを見下ろすことができた。
小雷によると、この辺りは日本でいう渋谷・原宿なのだという。
なるほど、このスタジオにミラーボールが付いていたならば、僕が渋谷の宇田川交番前辺りで見上げていたのは、この部屋だったのかも知れない。
要するにそういう雰囲気の街角で、そういう雰囲気の部屋だった。

見た事もないアンプや、整備されていないドラムセット等にひとしきり不満を言いつつ準備をすすめていくも、実際に日本から来た楽器達が欠伸とも何ともつかない声を挙げ始める頃には、僕達はすっかりこの雰囲気を気に入っていた。
台湾の機材状況は林雨霖から前もって聞いていたし、この旅では細かい事を気にしている訳にはいかないという暗黙の了解が、メンバー全員の理解だった事は確かだが、それよりも異国の地で音楽を演奏することが現実になった実感と、台湾の渋谷を見下ろしながらの開放感が、僕達の精神状態に良い作用をもたらしたのだった。

各自楽器を持ってスタンバイすると、小さな耳鳴りのようにずっとバンドにまとわりついていた緊張感が消えたようだった。
部屋の隅に座っている小雷にも、今まで何をするにも自分に頼りっきりだった5人が、少しは頼もしく見えたのではないだろうか。
できればそうであって欲しい。
とにかく、最初の聴衆は女の子一人。僕達はチューニングを済ますと「その男、裏表アリ」を始めた。

実際の所は、スピーカーの位置のせいか、それともスタジオの環境のせいか分からないが、歌声はいくら張ってもボワボワと膨らむばかりでよくモニターできなかったし、ドラムの音も本来の効果の半分くらいの軽さで、部屋の中を跳ね回っているような感じだった。
日本のスタジオで同じことが起これば、まず誰かの集中力が切れて、その1日は取り返すことのできない、険悪さを生み出していた事だろう。
しかし不思議な事に、今ここでそうしたことを気にする者はいなかった。
「その男、裏表アリ」は日本での最後のライブにも間に合わなかった程新しい曲で、まだ展開すらおぼつかなかったが、チグハグな演奏ながらも僕達の熱はどんどん上がっていった。

鍵盤が必要になる面倒な曲を除いて、「考える人」「新しい国」「鼠」と、ギターナンバーを次々演奏していくにつれて、僕達は本当に普段の調子を取り戻したし、後になって思えば、この時点で既に東京の僕らを乗り越えてしまっていたのかも知れない。
ただ演奏する事が楽しかった。
誰の目を意識する事無く、音楽の中にいることが喜びだった。
小雷も座りながらも、足を動かしてリズムをとってくれていた。

日本のライブハウスで僕らの演奏の僕ら自身の判断基準、それは何とも言えない窮屈な(人口密度という意味ではなく。残念ながら)雰囲気の中で、せめて聴いている人の足や、体の一部分だけでもリズムに乗っているかどうか、であった。
体が反応するということは、好き嫌いは別として、確実に音楽が一旦その人の体に入った事を意味する。
だから僕達は小雷がそうしてくれている事にとても安心した。

その頃にふと窓の外に目をやると、大通りを挟んで斜向かいにある建物に組み込まれていた時計が見えた。
もう22時まであと10分少々となっていた。
僕はあまりにも時が経つのが早いように感じて思わず、あの時刻は正確かどうか小雷に訪ねた。
そしてそれが正しいと分かると、僕は思い出した。
きっと1976はもうすぐスタジオに入って来て、僕らの演奏を聴きたがるだろう。
僕はまた少し構えたような気持ちになりはじめたので、それを振り解くように1曲ずっと目を瞑って「光の輪」を歌った。

そして残り5分となったところでもう一度確認の意味で「新しい国」を演奏していると、曲が第2ヴァ−スに差し掛かった辺りで、僕の視界の端が感じていた、あのカラオケ的なガラス扉に、人影が現れたのだ。
申し訳程度のセロファンが思ったより効果を発揮して、それが誰なのか分からない。
林雨霖なのか、それともまだ1度も会った事のない他のメンバーなのか。

2016年6月6日月曜日

「新しい国とTシャツとわたし」③(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

翌日の空は昨夜のものと寸分違わぬ様子で、ただ灰色く停滞していた。
雨はもう今にもこぼれてきそうで、またそれを堪えようという意志もなさそうだった。
すでに僕達は雨の中を歩いていて、今の時間はたまたま彼等が道を空けてくれているといった風に。
そしてこの台北に関していえば、帰国するその日まで空は僕達に同じ顔を向け続けていた。
ただ無関心ということだっただけなのかも知れない。

そんな肌寒い市街を、僕達は小雷に導かれて足早に巡った。
彼女とは昨年下北沢のライブハウス、CLUB QUEで1度だけ会ったことがあった。
その頃日本語学校に留学をしていた彼女は、林君の紹介で僕達のライブに足を運んでくれたのだった。
それ以来、約半年ぶりに会った目の前の彼女はその時よりも随分大人っぽく見える。
確かに日本のライブハウスでまだ拙い日本語を話している姿と重ね合わせるのは公平ではないかもしれないが、言葉の問題を抜きにしても、これが彼女の自然な、あるべき姿なのであろうことは直ぐに分かった。
25年もの間呼吸してきたの台湾の空気が、彼女をあるがままに迎え入れるのに何の雑作もある筈が無いのだ。
逆に僕達はその後何処へ行っても直ぐに日本人であると見破られた。
仮にある台湾人の格好を、髪型まで含めて全部真似してみても、同じ事だっただろう。
文化とはそういうもので、きっと僕らの背中に積み上がる。

とはいえ、小雷には独特の雰囲気があったことも確かだ。彼女はどの場所にもまるでずっとそこでそうしていたかのように存在する。
ある時はパーフェクトなツアーガイドだったし、ある時は小さな屋台の常連の客だった。
ライブの現場ではベテランのスタッフだったかと思えば、打ち上げでは長年の友人だった。
多くの台湾人が彼女と同じ様な気質を持っている事は、その後の多くの友人達との触れあいで知らされるものではあったが、振り返ってみても小雷の状況への順応力は飛び抜けていた用に思う。
それが台湾語、中国語は勿論、英語、日本語、そして今では韓国語にも挑戦しているという才女振りの根拠になっていたのだろう。
とにかく彼女にはその後の全ての状況で力を貸してもらうこととなった。

故宮博物院を急ぎ足で見学し、待望の小籠包に舌鼓を打つと、僕ら一行はもう激しく打ち始めていた雨の中に繰り出した。
台湾の音楽情勢を知っておく為に、是非とも前もってレコードショップに行っておきたかったので、小雷の勧めで、ある複合デパートに向かうことにした。

CDショップは日本に良く見る外資系のそれに比べると随分と控えめなものではあったが、丁寧に陳列された商品達はジャンルを問わず全てが並列に、解放的に佇んでいた。
基本的には欧米の音楽が広くスペースを使っていたが、日本や中国のポップスもある程度の主張をもって置かれていた。
もっとも日本の音楽に限って言えば、商業音楽の廃棄物が汚らしく場所を占拠していたに過ぎないが。
その中にもう少し小さくはあれど、台湾の音楽のコーナーもしっかり設けられていた。
台湾にもメジャーとインディといったようなシーンがあって、そのどちらもが同じくらいの量で並んでいた。
未だに状況が飲み込み切れていないのだが、そういったメジャーやインディの境目は殆どないのか、メジャーチャートで50万枚くらい売り上げた「五月天」(MAYDAY)というバンド等も林雨霖や小雷の友人だとのことだ。
そんな訳で当然1976のCDも置かれており、レジの横には彼等のポスターも貼ってあった。

その店内を見ただけで、この国の音楽情勢が分かるとはとても思わないが、基本的に若者は能動的に各種情報に接しているような印象を受けた。
その後に訪れた、上階にある24時間営業(!)の書店でも同じ様な事を思ったが、基本的にはショップは情報を整理するのが仕事で、後は選択されるのを待つのみといった風で、店員も客も落ち着いた時間をすごしていた。
それは今になって思えば、台湾という国自体の特質だったのかも知れない。
近代化された街から道を1本外れれば、そこには屋台が連なり、そこで食事をする老人の横を、スターバックスコーヒーを持った男女のバイクがすり抜ける。
場所や時間が人を選り分けることがなく、ただ用途に合わせてライフスタイルを選択している。
そもそも政治的に幾つもの諸外国の価値観を短期間に提示された台湾は、その中から自分達で正しいと思えるものを選ばなくてはならなかった。
つまりこの国では待っていれば与えられる物は無いのだ。そしてそれはとてもシンプルな、当たり前のことな筈である。

余りにもしつこい雨と冷気に少々疲れた僕らは、ホテルに戻って体力の回復に努めることにした。
ライブを明日に控えた僕達は、窮屈な旅を終えた楽器達に屈伸させてあげなければならなかったし、何より僕達自身を景気付けるためにも、1度どこかでリハーサルをしておかなければならなかった。
前もって林雨霖に予約しておいてもらったスタジオの時間は21時から1時間だけ。
その同じ部屋で22時から24時まで別のバンドの予約が入ってしまっているのだ。

その「別のバンド」こそが1976だった。
つまりその22時の入れ代わりが僕らと1976とが初めて顔を合わせる瞬間になるという訳だ。

2016年6月3日金曜日

「新しい国とTシャツとわたし」②(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

師大路の夜市で僕達は臭豆腐の洗礼を受けながら、薄汚れた店内に置かれた小さなテレビに映る、台湾の安っぽいドラマをぼんやりと眺めていた。
セットも衣装も日本ではコントに使われるような手抜き加減だったが、どうやら彼等は真剣に演じ、真剣に仕事をしているようだった。
その劇中で彼等の使っている言葉は台湾語であると、林君は手慣れた手付きで豆腐を口に運んでから言った。

台湾の歴史問題をここに述べるのは控えるが、この国では中国語が国語として教育され、それとは別に台湾語が存在する(さらには客家語と、もう一つポピュラーな言語があるということだが)。
そして若者は中国語と台湾語の両方を混ぜ、使い分けながら生活しているとのことだ。
彼は後述するSAY YES TO TAIWANフェスティバルの際には中国語は使わないべきだとも言った。
小さな島国に暮らす、ごく普通の若者の中にも歴史の認識と責任が複雑に絡み合っていて、それが彼等の肌に静かに纏われている、それが現在の同じ東アジアで起こっている驚きを感じた瞬間。
僕達はその後少しの間何も言わずに画面を見ていた。


店を出て角を一つ曲った通り沿いの階段を、おもむろに林雨霖が降りていったのは深夜も1時を30分ほどまわったころであろうか。
壁には我々quizmasterと1976の一緒に写ったポスターが貼られていて、階段が我々を地階に運ぶ役割を終えた頃に、一際大きなパティスミスの肖像が僕らを迎えた。

「地下社會」、そこは僕達が日本を出て初めて聴衆と向き合う筈の場所だった。中は深夜営業の酒場の形態と化していて、既に白人客を含めた10人程度が店内にうごめいていた。
林君の紹介で、バーテンをやっていた可愛らしい女性店員と軽い挨拶を交わす。
彼女は「LADY BUG」というバンドをやっていて、その2枚目のアルバムは辛口の林君をして、台湾で最高の1枚と言わしめる作品とのことだ。
アメリカ留学をしていたという彼女は、そこで一人のアメリカ人男性を虜にしたらしく、彼女を追って台湾まで来たそのアメリカ人が地下社會の内装ペイントを施したということらしい。
なるほど、気が付けば店内の壁と言う壁はサイケ調の鮮やかなペイントで覆われており、それが外界と遮断するドアさえも無いこの場所を、一つの「社會」たらしめているようだった。

僕らは彼女の勧めで入り口に程近いテーブルに落ち着き、少しの間この空間に自分達の演奏を浮かべてみることにする。
細長い形の店内は幾つかテーブルを置かれると殆どスペースが無くなってしまう程の規模で、目を凝らせば奥にドラムセットが漫然と片付けられているのは見えるものの、東京のライブハウスの半分にも満たないサイケデリックな状況に、自分達の音楽が流れていることを想像するのは容易では無かった。
ライブの時はテーブルなどは全て片付けられるとはいうものの、ステージとして客席と線を引かれるような段差などは一切なく、ただその奥に僕達5人は陣取って、言葉の通じない聴衆と相対するのだという。

僕は体の奥が少し振動しているのに気が付いた。
思ったよりも台北の気温が低いこともあったかも知れないが、それだけが理由でないことは自分で良く分かっていた。
東京のライブハウスでも、ステージに上がるまえのごく直前にやってくる武者震いのようなあれが、2日前の今にして僕の体の奥を捕えたのだ。
それは怯えからくるものでは無くおそらくは決意の表出であるので、普段は気持ちの高まりとして心地よくもあるのだが、これ程前からこの振動を感じたということは今までにないことだった。
この台湾でのライブの重みをそれだけ敏感に体が感じ取ったということ。
その事実に僕は少しの間平静を失ったのだった。
あの空間の奥に立ってこちらを見る僕は、聴衆に何と語りかけるだろう。
その言葉はどこの国の言語なのだろう。
それを彼等はどう感じ、どう反応するだろう。
純平のカウントが始まる時、僕達はどんな気持ちでいるのだろう。

「お久しぶり〜!」と、甲高い日本語がその思考を遮った。
声の主の小柄な女性は小雷(シャオレイ)だった。

2016年6月2日木曜日

「新しい国とTシャツとわたし」①(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

林雨霖(リンウーリン)の運転する車に乗って、僕達は街へ繰り出す。
外は気まぐれに視界を濡らす程度の雨。
冬の東京に比べれば幾分ましではあるものの、肌寒いといって差し障り無い冷気が、旅疲れの僕らに添うようにしていた。
丁度台北は祭りの期間だということで、アジア特有の薄くくすんだようでいながら賑やかな、如何わしくも華やかな電飾が、大通りを分断する木々を色付けていた。

時間はもう夜の10時に近くなっていたように思うが、街はこれから動き出すかのような熱を帯びているように見えた。
それはアジアの国々が本来持つべきエネルギーを、当然のように溢れかえらせているだけなのかも知れない。
しかし東京の追憶に、似た様な映像を重ねられないのは僕だけなのだろうか。
その時僕は今回の旅が、僕らが、ひいては日本人が失った何かに出会う旅になるかも知れないと感じていた。あくまで暗喩的にではあったけれど。


彼の運転で「ノルウェイの森」という喫茶店に着いた頃には、雨も渋々といった感じで夜の闇に潜んでいった。
その店は先程までの街並とは一風変わって、落ち着いた灯りを軒先きの小さな路地に落としている。
ここは林雨霖が日本滞在時から良く話に聞かせてくれた喫茶店で、そのオーナーとも観光来日の際に2度程会ったことがあった。

店の名前がビートルズの曲名からとられたものであることは予想に難くないが、オーナーの本意は村上春樹氏の同名小説からの引用ということだそうだ。
台湾では自国作家の小説に人気が無く、欧米の作家のものが良く読まれるらしいのだが、そうした欧米の作家に通じる作風の村上春樹氏の作品も大変人気だということで、後に訪れた書店でも新作が特集されるなどしていた。
勿論オーナーは偉大なるバンドへの敬意も合わせて命名したというのだが。

店内に足を踏み入れるとまず、近代的でいて暖かい雰囲気のBGMが心地よいボリューム感で耳に入ってきた。
白を基調としているのに嫌らしいミニマリズムを感じずにすむのは、「森」らしくアクセントになっている緑と茶色の内装が飛散しようとする白を捕まえているからだろうか。

そこでオーナーと久々の対面を果たす。
林雨霖によれば、40代ということだが、東京で出会った時よりも随分と若々しく見えた。言葉の通じない者同士だけに自然と表情に微笑みが浮かび、握手に力がこもる。
こういう時に喜びを伝え合う手段を動物はしっかり持っているのだ。
よく来たな、元気にしていたか、沢山の台詞がその大きな手から伝わってくる。

彼に促されるようにして席に着くと、店にはすでに多くの若者が居る事に気付いた。
様々な出で立ちで彼等は思い思いの時間を過ごしていたが、皆一様に真剣にその休息を、思考を、会話を楽しんでいた。
音楽は決してその邪魔をしない形になって彼等の周りを流れる。
そこには如何なる倦怠も存在しないようだった。
本を読む女性も、手を取り合って語り合う男女も、音楽を聞いているだけの風な少年も、誰からも一つの不満も感じられなかった。
果たしてこれはこの「ノルウェイの森」のみが成し得る魔法なのか、それともこれがすでに日本と台湾の違いなのか。

少なくともそこに広がる空気は、僕達が日本で感じる事の出来ないものであったことは間違い無い。
完全に独立した個人でありながら、全くの他人という概念が存在しない状態とでも言おうか。

そんな事を考えながら、僕達はシンプルなコーヒーを飲んだ。
先に店に来ていた林君の友人がテーブルに加わり、彼の流暢な日本語に導かれて欧州のサッカーと、自殺した韓国人女優について語り合う頃には、僕はすっかり国籍を無くした誰かになってしまっていたように思う。
そして浮かび上がった僕をシャボン玉のような透明が、日本人という意識の変わりに包むその感覚は、とても心地の良いものに感じられた。

12時をまわって、閉店間際にオーナーは僕達のCDをかけてくれた。
突如耳に飛び込んできた自分達の曲に、僕のシャボンは割れて、僕は席についた。
目を閉じると少し瞼が熱い。
台北の夜はこれからだというのに。

2016年6月1日水曜日

「新しい国とTシャツとわたし」前書き(2005年台湾ツアードキュメンタリー再掲載)

既にお知らせしているとおり、6月24日からGoodbye Donuts Records所属アーティスト達による台湾公演を行います。3日間に渡る、異なる会場で異なるタイプのイベント。
この機会に台湾の皆さんにも各アーティストの素晴らしい音楽を体験してもらえたらと思っています。

そもそも、僕が台湾ツアーを最初に行ったのは2005年のこと。quizmasterというバンドで初めて台湾を訪れ、そこからもう11年になります。その後のicon girl pistolsでのツアーも含めると、今年の台湾ツアーはきっと7回目とか8回目とかそのくらいになるでしょう。

そこで、初の台湾ツアーから10年が経過し11年目を迎えたことを記念して、初回台湾ツアー時に書いたドキュメンタリー日記のようなものを、11年前と同じように連載として掲載したいと思います。

今回の掲載に当たり、文章は全面的に加筆修正する予定でしたが、読み直してみて、この当時の青臭い文体・感受性をそのまま残しておくことこそが、ドキュメンタリーとしての意味を持っているのだと気づきました。そのため、修正は誤字脱字など必要最低限にとどめてあります。

TwitterもFacebookも無かった時代に、ブログとしてテキストだけで長ったらしく書いていた台湾ツアー日記。
今なら少しばかり写真なども挿みつつ、振り返ることができそうです。

ちなみに、今年この時期に台湾ツアーを結構するのには、ある特別な理由があるのですが、それはこの連載が終わった後にでも・・。

あの頃と変わったこと、変わってしまったこと、変わらないこと。
今がちょうど10年以上前の自分と向き合うべき区切りの季節なのかも知れません。

それでは、時は2005年の2月に遡ります。
「1976」という台湾のバンドに招待してもらって、僕たちquizmasterは台北のライブ場で2回、そして高雄で行われたSay Yes To Taiwan Festivalにて1回、計3回の演奏を行いました。