次回ライブ

■次回ライブ■
2017年11月10日(金) 亀有キッドボックス

2017年1月23日月曜日

白倉新之助と踊る子守唄×MONGREL 2マンショー!

昨年色々と活動させてもらいました「白倉新之助と踊る子守唄」ですが、2017年からまた少しずつ形態を変えながら進んで行こうと思っています。その第1弾であり、かつ第1章の終わりとなるのが、2/10に行われる2マンライブです。

[2/10(金)tomorrow’s planet]
出演 :
白倉新之助と踊る子守唄
MONGREL
会場:
三軒茶屋グレープフルーツムーン


この日はギターに鈴木真という男を迎えて演奏してみます。普段はジャズ、フラメンコ畑で演奏している彼の要素が加わることで、どんな変化が起こるのかとても楽しみです。

そしてChrisはこの日のライブを境に、今後基本的にはicon girl pistolsの活動に専念します。今まで忙しい中2つの活動に付き合ってくれてどうもありがとう。

なんだか2017年になってicon girl pistolsが急に活発になってきました。こちらは乞うご期待ですが、2人共が掛け持ち活動していると捌ききれないスケジュールになってきそうなので、Chrisのigp専念はやむを得ない判断です。東京で彼のボンゴプレイが観れるのは、2/10が最後かも知れません。是非お見逃しなく。

Chrisの東京ラストボンゴ!?


対する2マンの相手は、前々からお手合わせを希望していたMONGREL。
turu君というシンガーソングライターでもありアニメイターでもある才人とは、2015年のsakata guitar nightで本格的に知り合いましたが、何処と無く自分に似ているところがあるように、勝手に思っていました。

90年代の東京で生まれ育った僕らは、意識的でなくとも、膨大な量の情報と選択の機会にさらされてきました。インターネット環境が整備された今なら世界中で同じことが起こっているかも知れませんが、少なくとも我々のユースの時代には、東京で育つか、地方で育つかという違いは、価値観の形成にかなりの差異があったと思います。

当時の東京カルチャーを振り返ってみると、セレクト、サンプリング、それから、スタイリングということだったような気がしています。DJ文化が海外から流入してくる中で、「セレクトする」という行為自体に価値があり、それがクリエイションにもなり得るという時代だったのです。

だから我々の創作は時に、スタイルを選択する事から始まります。サンプリング(実際に音をサンプリングするということに限らず、概念的な)された1つのアイディアから創作することもあります。
メロディーや歌詞が絶対君主であり、他の要素が従属するものであるという関係性ではなく、リズムも、サウンドも、メロディーも言葉も、パフォーマンスも、もっと言えばアートワークやコンセプト、発表方法さえも、創作に関する全ての要素が等しく1:1:1:1…という関係性になっているということ。

これは実に90年代の都市型カルチャーの特徴だと思いますがこうした価値観は時に、地方から叩き上げられた圧倒的な個の力に打ちのめされる瞬間もあるという…まあそれは余談です。

実際にturu君が自分と同じかどうかは分かりませんが、MONGRELの演奏を見て、それからturu君のパフォーマンスを何度か見て感じた事は、そんな事でした。

つまり、お前の才能、結構俺とかぶってんぞコラ、ということです。ステージ上でかぶってるハットも、俺とかぶってんぞコラ、ということです。
MONGRELの帽子


踊る子守唄の帽子

つまり、真っ向勝負ということにワクワクしています。

そして皆さんにお伝えしたいのは、僕らみたいな人間の真っ向勝負は、多様なスタイルの打ち出し合いということになると予想されるので、一瞬も退屈する事はないと思います。
色んなキャラが同じゲーム内に登場する、夢のクソゲー「ファミコンジャンプ」みたいな、そんな夜になりますように。

是非、遊びに来て下さい。
Facebookイベントページはこちら
https://www.facebook.com/events/1851615908415530/?ti=icl

[2/10(金)tomorrow’s planet]
三軒茶屋グレープフルーツムーン
出演 :
白倉新之助と踊る子守唄
MONGREL
OP19:00/ST19:30
前売¥2500(D別)
予約
info@grapefruit-moon.com
または
各アーティスト

2017年1月4日水曜日

「グッバイドーナツ自由の女神」の自己分析

先日友人のT君と話していて、彼が「グッバイドーナツ自由の女神」という曲の歌詞について謎解きを披露してくれた。
そこで、私が曲中のある一節について簡単に説明をすると、彼は一つ分かってスッキリしたとのこと。

私の歌詞はどうやら難解なことが多いらしいが、私にしてみれば、歌詞=詩であり、秘密の暗号のようなものなのである。
しかし、なぜ暗号を使うのだろうか。そのままストレートに言えばいいものを。

思うにきっとそれは、「言葉そのもの自体の美しさ」を残したいと思っているからなのだろう。
これは私の個人的な考えだが、芸術と呼ばれるものは、その背景に込められた「意図」よりも、「そのもの自体が美しい」ことが大事なのではないだろうか。
ピカソが『ゲルニカ』という作品を描いた時、その裏には非常に強い動機があったことは周知の事実だが、多くの人の心にインパクトを与えたのは、その作品自体に強いエネルギーがあり、美しかったからなのだと。
逆に、意図やメッセージだけが剥き出しで存在しているもの、それは「芸術」ではなく「批評」と呼ばれる種類のものではないだろうか。

自分がやっていることを「芸術」だと思っているつもりはないが、私が学び、共感してきた表現方法は、そんな風に作者の「意図」が全く違う美しいもの(またはグロテスクなもの)に形を変えた、「そのもの自体に価値がある」と思えるものだった気がしている。

自分の詩に関して、ひどく簡単に言ってしまえば、「言葉が美しければ意味は後からついてくる」と考えている。
実際、自分で書いた前の行の言葉や、直前の音(「ん」だとか「あ」だとか)に導かれるように言葉が出てくるということは幾度となくあった。
というか、殆どがその作業の繰り返しである。つまり、連想ゲームだ。

しかし、この連想ゲームこそが、作品作りの肝なんじゃないかなと思ったりもする。
常に直前の自分に反応し続けていく、自分の上に自分を積み上げていったり、自分の古い皮膚の上に新しい皮膚を重ねていったりする。
これ即ち、人生と同じことなのではないだろうか。(私、素敵なこと言いました。)

ところで今日は、こんなことをつらつらと書いておきながら、冒頭のT君をもう少しスッキリさせてあげるためにも、下記の曲の自分なりの解釈について記してみたいと思っている。

自分で作ったものなのに「自分なりの解釈」というのは少々おかしい感じもするが、そうとしか言いようがない理由は、これまでお読みいただいた内容でお分かりいただけるかと思う。

恐らくこんな風に自分の詩を自分で分析して人目に晒すことなど、今後することはないだろうが、なんとなく、一つくらいいいのかなと思ってやってみることにする。

------------------------------------

「グッバイドーナツ自由の女神」

悲しい運命ね
あなたは先の事を知り過ぎているわ
未来を予定通り
過去に塗り替えて生きていくだなんて

悲しい体温ね
あなたの中は熱い雨が降るのに
外側は冷たく晴れ渡ったよう
真冬のベッドシーツみたい

空港に住んでる僕に手紙をよこさないでよ
例え届いても僕はそいつを読みやしないよ

その子は檻の中に閉じ込められて
苦しい、苦しいと言う
その娘は彼を檻ごと抱きしめ
もういいよ、もういいよと言う

二人は固く結ばれて
愛と引き換えに旅を終えた
日に焼けた鞄の中に縫い付けた
日付変更線

自由の女神
子守唄でも聞かせてくれよ
両手の荷物を脇に置いて
さあ
柔らかい胸の谷間に僕を閉じ込めてくれよ

さよならさ
また会う日まで
グッバイドーナツ
また会うその時まで

空港に住んでる僕に手紙をよこさないでよ
例え届いても僕はそいつをビリビリに破いて
あなたを見送る紙吹雪にするよ

さよならさ
グッバイドーナツ
また会う日まで
自由の女神

さよならさ
また会う日まで
グッバイドーナツ
また会うその時まで

------------------------------------


ここは、現代に生きる一般的な人々の生活を指している部分だという気がする。
多くの人が明日、来年と先の予定を(無意識にでも)立てて、それをこなして生きている。
未来は予め決められていて、それを丁寧に過去に置き換えていく作業であるかのように。

ここも、話しかけられている対象は①と同じだろう。
我々の内に秘めている「熱さ」は大抵雨のように、それが日常的であっては厄介すぎるものかも知れない。
だから私たちは日々それぞれの想いを隠し、何事もないかのように晴れ渡っている。

「空港に住んでる」というのは、振り返ってみて思えば、「いつでも旅に出られる瀬戸際にいるのに、いつまでも旅に出ない人」のメタファーだという気がする。
何処か遠くの国にいる誰かから手紙が届く。でも「空港に住んでる僕」は意地を張ってそれを読もうとしない。
読めばきっと旅にでなければいけなくなるから。

ここで一組の男女が登場する。この男の子は③で空港に住んでいた彼かも知れないし、もしくはまた別のケースかもしれないが。
この男の子は檻の中から出たくても出れずにいる。
しかしその恋人だろうか、女の子はそんな男の子の状況をそのまま認めて、それでいい、それ以上苦しむ必要はないと語りかける。

ここは④の話の続き。男女はお互いの現状を認め合い、それを許し合うことで愛を深める。
しかし現状を受け入れてしまうということは同時に、旅することを止めてしまうことを意味していた。
「日に焼けた鞄」は旅をしていた時の象徴だったが、そこに日付変更線を縫い付けてしまう=もう鞄は役目を終えて、2度と日付変更線を越えるような旅をすることはなくなってしまった。

自由の象徴である「自由の女神」に抱かれて眠るとはどういうことだろうか。
きっとそれは「自由になる」ということでは無いような気がする。
誰か特定の人に受け入れられ、それに安息を得るということは同時に、そこで行き止まりだということのように思う。
それが自分でも分かっているからこそ、この箇所の話し手は「閉じ込めてくれ」という諦めにも似た表現をしているのだろう。

「ドーナツ」というのは、ここでは「閉じているもの」の象徴として使われている。
出口がなくただ循環していく毎日、上昇することも下降することもない日々、またはいつまでたっても変えることのできない環境など、そういったもの。

つまりこの詩のテーマは、抜け出せなくなってしまった循環に別れを告げて、自由への旅を再開するということにあるのではないだろうか。
「また会う日」とは、いつか本当に旅することを止めた時、またはその人生を終える時なのかも知れない。

「空港に住んでいる僕」は、空港に留まることをもう止めようとしている。
彼は、自分が新しく旅立つということは、ひとつの別れを越えるものであると理解したのだった。

旅することを諦めていた人物は、遂に現状から飛び出すことを決意する。
それは、自分を100%認め、優しく包んでくれていた「自由の女神」という、保証された安全にさえも、別れを告げることだった。


* * *

以上が、この詩に対する作者である私自身の解釈(後付け)である。
とはいえ、作者自身でさえ、これが正解であると言い切ることはできない。
何故なら前半でも書いたように、実際に言葉が生まれる時には、自分でこうした「意図」を持っていないからである。
単に、「日に焼けた鞄に縫い付けた日付変更線」とか「空港に住んでる僕」などの言葉がどこからか出てきて、それがそこにあるべきであると感じたら、そこに残っていくといった具合。それが自分にとって詩を書くという行為である。

しかしながら、後付けとはいえ、私がこの詩の中で、ここはこういう意味であると明確に限定したい部分が一つだけある。
それは「グッバイドーナツ」という言葉。
この言葉は歌の旋律に引き寄せられるようにどこからか現れたものだったが(これだから歌詞というものは面白い)、私はこれを啓示的に「循環から抜け出すこと」と受け止めた。

冒頭のT君はこの言葉を「心に穴があいた状態」と解釈してくれたようで、勿論そのように受け取ってもらっても一向に構わないのであるが、私自身がこの言葉を使う時には、上記に書いたような意図をもって使っているということだ。

いつまでも同じところをグルグル回っているようではいけない。
同じ人達だけで閉じているようではいけない。
クリエイティビティの面でも同じところにいてはいけない。

循環から抜け出していくこと。
我々を閉じ込めてしまいがちな循環から抜け出すこと。
世界は常に輪の外、ドーナツの外側にあるのだ。


私がGOODBYE DONUTS RECORDSというレーベル名を付けたのには、そんな「意図」があったということ。これを、おそらく2017年最初の記事になるであるろうこの文章の最後に記しておきたいと思う。