次回ライブ

■次回ライブ■
2017年12月19日(火) 下北沢BIG MOUTH

2016年4月25日月曜日

生きているというニュース

続いて行くことは、途切れてしまったことよりも価値があるように思うのです。
でも、続いて行くことはあまり人々の関心をひかない。

繰り返される日常生活を切り取ったニュース、例えば「今日、墨田区のスミダ商店さんのご主人スミダケンジさんは、いつも通り少し腰痛を気にしながらも元気に営業して売り上げは13000円、夜は孫をお風呂にいれました」というような。
これをすべて取り上げて周知することは不可能だし、この情報が人々に与える影響も殆どないわけで、よってニュースソースとしての価値がない、お金を生み出さない、経済をまわさないわけである。

勿論全てのニュースが資本主義経済の必要に迫られて広められるわけではない。
人はもともと、無知への恐怖心が強く、未知への欲求が強いのだ。
他者より知識を持っているということは、より高い生存確率をもたらしてくれる。太古の昔から人間は生存本能として「知る」ことを求めたし、その知識を「教える」ことに価値を見出していたのだと思う。

だから単純に、「スミダケンジさんの日常生活」は既知である、または簡単に予測しうる出来事であるが故、知る側またそれを教える側、双方ともの欲求を満たさない。
極論を言ってしまえば、誰かの繰り返される穏やかな日常なんて、生存本能に訴えかけないのだ。

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PRINCEというアーティストが亡くなって、自分の眼前に流れてくるSNSのタイムラインには多くの追悼・哀悼、偉業への賞賛の声があがっている。秘めたる想いを打ち明ける人もいれば、これまで明かされていなかったPRINCEストーリーなどもどんどん列挙されている。

僕自身は、PRINCEが「元プリンス」と呼ばれるようになった時代に、J-WAVEのラジオでクリスペプラーが「元プリ」の曲を紹介しているのを記憶している。確かにその時AIRチェックした音源から興味をもって、ベスト盤で一連の代表作を聴いてみたはずだ。そして、それはとても素晴らしかった。ある一定の期間僕は彼のファンだったと言えると思う。でも、その期間を過ぎて僕は彼のことを忘れてしまっていた。

DAVID BOWIEが亡くなったことは、僕にしてみればPRINCE氏死亡の知らせよりも大きいニュースだった。ポピュラー音楽をやっている人でDAVID BOWIEの影響から逃れられている人はいないだろう。彼の功績をここで書くつもりは無いが、実際僕は彼の曲を数曲、人前で歌ったこともある。彼の曲をピックアップして研究したことだってあったように思う。研究ったって大したことじゃないけれど。

まあきっとPRINCEもDAVID BOWIEも、僕が持っている知識の差こそあれ、音楽やカルチャーに与えた影響の大きさは同じくらいあるのだろう。まさに偉人が、2人亡くなってしまったわけだ。そして2人の偉人に共通しているのは、過去に活躍したスターとしてではなく、現役の最高峰ミュージシャンとして死んでしまったということ。全世界のファンは常に彼らと彼らの作品のことを忘れなかったし、彼らのほうでも、忘れられることを許さない努力、革新者であることを続けてきていたのだ。

でも僕は、正直に言えば、彼ら2人とものことを少し忘れていた。だって仕方が無いじゃないか。全ての人のことを覚えていて意識し続けることなんてできない。















これは、Googleトレンドで調べた、「DAVID BOWIE」の検索結果。
Googleトレンドの数値は検索の絶対数ではなく、最高点を100とした対比としての数字が表示されているとのこと。

ここで数値が跳ね上がって100に到達しているのは、勿論2016年1月のことである。
彼の死亡を伝えるニュースが全世界を駆け巡ったその時だ。ずっとファンだった人達も、少しくらいは知っていたという人達も、全く知らなかった人達も、この時「DAVID BOWIE」について関心をもった。

2013年に少しグラフに動きが見られるのは、10年ぶりのスタジオアルバム「The Next Day」をリリースしたからだと思われる。彼はこの時生きていたのだ。生きて作品を発表し、実際にファンは歓喜したし、僕だって素晴らしい作品だと感動した。

その「彼が生きている」というニュースと「彼が死んだ」というニュースのこの対比!

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DAVID BOWIEが生きているうちに彼の事を少し思い出していたら、彼に電話をかけて声を聞く事ができたとか、こんなことならPRINCEに会っておいて好物のカレーでも作ってやればよかったなとか、勿論そんなことができるわけではないのだけれど。

今、こぞって彼らのことを取り上げてくれているメディアの人々、熱い想いをSNSに投稿してくれているファンの人々、どうして僕に「彼らが生きている」というニュースを知らせてくれなかったのか。どうして死んでしまってから知らせようとするのか。

冒頭から書いてきたとおり、繰り返される平穏はニュースにならない、そういうものなのだ。それはあまりにも当たり前で、あまりにもどうしようもない。

墨田区のスミダ商店さんのご主人スミダケンジさんも、亡くなったら少しくらいは界隈のニュースになるだろう。でも僕は、スミダケンジさんがそんなに素敵な人なんだったら、生きているうちに知りたかった。是非、お会いしてみたかった。そう思うことでしょう。

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途切れてしまったことの方が、ニュースとしての衝撃が大きい。それは至極当たり前のこと。でも、続いて行くことは、途切れてしまったことよりも価値がある。

あなたの周りの、続いていることには、人に知らせるだけの価値がある。
続いている命、生きているというニュース、分かち合えたら素敵です。

そして時には、途切れてしまったことよりも、まだ続いていこうとするものこそを、積極的に取り上げて行かなければならないこともあるはずです。