次回ライブ

■次回ライブ■
2017年2月10日(金) 三軒茶屋グレープフルーツムーン
[tomorrow's planet]

出演:白倉新之助と踊る子守唄/MONGREL

open:19:00 / start:19:30 前売¥2500(D代別途)

2013年8月26日月曜日

読音感想文 CINEMA dub MONKS "cinema,duo"

友人より、ある音楽について感想を聞きたいと言われたものですから、書いてみます。

Artist : CINEMA dub MONKS
Title : cinema,duo

ピアニカ、フルート、ウクレレなどを一人で演奏される方と、ウッドベースの方、それから映像を担当される方の3名からなるグループのよう。

友人から貸してもらったこのCDにはライブの模様をおさめたDVDも入っていました。

音楽の内容、映像ともに、極限までにミニマライズされた抽象的なモチーフの連鎖というべき表現。大抵の音楽には着地すべき地面のようなものがあるわけですが、彼らの音楽には着地すべき地面がありません。永遠に落ち続けることのできる深い暗闇、その中空で重力を感じているはずなのに、落下する事無く漂っている音と光の断片。

また、ライブレコーディング独特の人々がそこにいる感覚、息づかいや密かな心のざわめきは聞こえてくるのですが、それでいて激しい興奮があるわけでなく、微妙な熱をもった暗闇がただ存在しているような感覚。僕は何故だかこの感覚から、20世紀初頭パリの路地裏で行われていた秘密結社の集会を連想しました。暗闇の中で新しい思想や哲学について語り、「知」と「想像」で心の内側を燃やしていたような時代、その空気に近いものがあるのではないかと、勝手に思ったわけです。

さて、この作品を僕に貸してくれた友人は(彼もミュージシャンでありますが)、数年前にこの作品を聞き、こうした音楽が何故存在しているのか分からなかったそうです。

ちょっと友人も酔っぱらっていた部分もあり、「何故存在しているのか」という疑問については、どの点に「何故」の焦点が絞られているのか分かりません。
・何が楽しくてこのフリーフォームな音楽をやっているの?
・(歌のあるいわゆるポップスと比較して)お金にならないになぜやっているの?
・どのようにしてこの素晴らしい音楽が作られたの?
とまあ、こういった「何故」が彼の質問に含まれている可能性はありますが、上記は演奏している当の本人達に聞いていただかないと何とも解決のしようがないので、僕は僕なりに回答することのできる以下の疑問だと仮定してみることにします。

「こんな不思議な音楽なのに、良いと思う感覚がある、でも不思議すぎて全然分からない部分もある。こういう音楽って何を表現していて、聴く側は何を楽しむべきなのか」

この「cinema,duo」という作品のライナーノーツを読んだところ、このグループの名前は、メンバーの好きな物を並べたもののようです。

つまり、映画、ダブ音楽、そしてセロニアスモンク、この3つです。

この3つに共通するキーワードは何かを考えれば、彼らの表現しようとしているものが少し明確な形をとって見えてくるような気がします。

そのキーワードとは、「空間」です。

一つ一つの要素について掘り下げるとこの文章を終えられなくなってしまうので、駆け足で書きますが、映画は知っての通り、人類が初めて空間を意のままに操ることを可能とした究極の表現形式です。舞台芸術では想像力で補うしかなかったリアリティを、映画はその全てを何度でも再生可能なフィルムの中におさめることで、空間の操作、編集をも可能にしてしまいました。

ダブ音楽は、手法のことではなく、残響の音楽のことだと僕は思っています。発せられた音自体ではなく、その音の後に続く残響と、残響のために作られた音の空間、まさにこれも空間を操作するかのような表現方法として20世紀後半から急速に発展してきました。

セロニアスモンクはジャズ界の中でも異端とされるピアニストです。簡単に彼の演奏を評する言葉として「独特のタイム感」ということがよく言われますが、彼は得てして饒舌になりがちなジャズの文脈の中で、空間を作り出そうとする意識がとても高かったのではないかと想像するのです。

勿論これらは僕が感じたキーワードとしてのこじつけな側面はありますが、もとを返せば彼らCINEMA dub MONKSというグループの表現自体が、「空間」「間」を強く意識させるものだということは、ご存知の方であれば否定はされないでしょう。

音楽は、沢山の音の波が打ち寄せ合った大海です。大きな波、激しい波のことを音楽の素晴らしさであると感じやすいところはありますが、凪にも、波と波の間にも海はあります。世界を表現しようとする時に、「在る」ことだけに注目しようとするのは片手落ちです。世界には「無い」美しさが溢れています。夜空の星々があれほど美しく見えるのは、その側に強烈なまでの「無い」、つまり暗闇が寄り添っているからだ、などというのは使い古された言い回しのようですが、真実です。

話がどんどん哲学的になっていきそうで、それはそれでもの凄い興奮が自分の中に生まれてきていますが、ここはぐっとこらえてなんとか収束させましょう。

僕にこのCDを貸してくれた友人の疑問に答えるとすれば、彼らはこのように、空間と暗闇に光をあてる(この表現は面白いですね、むしろ、暗闇をより黒くする)表現をしていて、「無い」ことに含まれるストーリーを語ろうとしているのではないでしょうか。

人間は「無い」ことに対する強い恐怖心があると言われますが、それは反面抑えることのできない強烈な「無への欲求」だとも言われています。僕たちが「有る」または「在る」ことに安心感を覚えて、世界には沢山の「有る」が溢れていますが、だからこそこうした「無い」ことと、空間を表現した音楽というものが、僕たちの心に強く訴えかけることがあるのでしょう。

僕がCINEMA dub MONKSというグループの作品を聞いて感じたのは、アブストラクト=抽象音楽などという概念を超えて、抽象でも具象でもない、「無い」ことのための音楽という美しさでした。



音楽が何を表現しているか、それはそれぞれの音楽家だけが知る動機から発生し、その音楽の楽しみ方は、受け止める人それぞれの自由に委ねられています。そのため、勿論この音楽はこう聞くべきと定義するような行為は、音楽を聴く上でもっとも愚かな行為であります。

ただし、言葉にできない素晴らしい表現=芸術を、誰かにどのような形かで伝播させようとする時、人間は「言葉」という仮の記号を使うしかありません。僕は自分自身の感動の刻印を、なんとかこの仮の記号で書き留めておけたらと思うのです。

暗闇に火をつけて



暗闇に火をつけて


いつから続いているか忘れた
この暗闇に
そろそろみんな目が慣れてきたみたい

子供達はこれが暗闇だということも聞かされていないんだ

信号の赤と緑の灯りだけを頼りに生活することにも
冷蔵庫の熱で暖を取ることにも
慣れてきたみたい

影は何かに光が遮られてできるものなんだって
それじゃあこれは前の時代に遮られた大きな大きな影

でも落ち着いて考えなきゃ
今僕たちまでがたいまつの火を消してしまったら
みんなの足元に落ちているマッチを見つけるための光も
なくなってしまうじゃないか

世界にひとつも花なんて咲いていない
大人たちは花を全て摘んでしまい
それを高値で売って子供達のお小遣いを全部まきあげた

今僕たちまでがロウソクの火を消してしまったら
あなたが一年に一度楽しみにしている幸せな誕生日を
誰がお祝いしてくれるんでしょう

カモンベイビーライトマイファイアー
ハートにじゃなくて
僕と君の暗闇に実際的に
火をつけて

ブリーチ



ブリーチ

間違いならいいのに
それならばいいのに
心の冷たい人と
思われてしまった

数年前までは
あなたは僕たちと
同じ言葉を話し
同じく馬鹿だった

とはいえ僕も
取り立てて何か
してきたわけじゃない
なし得たわけじゃない

ペテン師だらけの
都会に唾を吐いて
あなたはいつかきっと
戻ってくるでしょう

思っていたよりも
真剣に生きていた
ただそれだけなのに
壊れてしまった

守るものができて
そのために何かを
捨てなければならない
そう信じ込んだまま

瞳の奥に
まだ怒りはある  
抽斗の奥に
ブリーチ剤はある

解体工事中の
オペラハウスに
あなたはいつかきっと
戻ってくるでしょう

2013年8月12日月曜日

音楽の色彩、ヒスイ色の絵の具おじさん

音楽に色彩をもたらすのは、和音の構成だと思うんですよね。一つ一つの単音にも色はあるんですけれど、「ド」とか「レ」とかっていう単音は、「赤」とか「青」といったような原色のようなもの。
じゃあドレミファソラシドを並べたらめちゃくちゃに色鮮やかな音楽になるかというと、そうではない。ちょっと専門的な話に踏み込むと、音楽には調性というものが基本的にはあって、毎日必ず帰るお家のような存在なんですけれど、そのお家の色や形が曲によって違うわけです。その曲の調性が「C」といって、とても「ド」の音を重視して作られたお家なのであれば、そのお家から近い音である程、原色に近い強烈な色になるんですね。つまり、調性が「C」の場合、「ド」は真っ赤っか、「ソ」は真っ青、みたいなそんなことです。

そういう音の絵の具を重ね合わせていくことで、音楽という一つの絵が出来上がっていくわけですが、最初に書いたように、その色彩を決定するのは、一つ一つの色の重ね合わせ方、つまり和音の構成ということだと感じます。

ドミソ、ミソド、ソドミ、ドミソド、ミソドソド…

この三つの音の組み合わせは理論的には同じ色彩を放つと言われている(ポップスの理論で言えばCコードというやつです)ものですが、音の重ね方、音の高さまたは音の高低差の間隔、そういった違いで全て異なる色表現となります。

三つの音の組み合わせだけでかなりのバリエーションが考えられますから、西洋音階で言えば音は12個、掛け合わせは膨大な数になります。さらにはそこに時間という概念が入ってくるので、1秒前に終わった響きと今出した音の響きとの関係性や混ざり具合なんかも、微妙な色彩表現となっていきます。もっといえば、その音が響く場所や空気にも影響されるので、完全に無限な色彩表現が可能なわけです。

これについては、倍音という可愛い音の妖精みたいなものが鍵を握っているんですが、それについてはまだ機会があれば。

とにかく長々と書いてきましたが要点は、この様に音楽において和音の使い方というのは、絵画における色の使い方と同じくらい、その人自身の個性を表すものだということです。

先日西麻布でのライブにお声がけして出演してもらったよよよゐ氏は、不思議な色の絵の具をいっぱいもっている人です。以前に一度ライブを観に行った時にそれをとても感じましたが、やはり今回もその不思議な色彩感覚をみせてくれました。

それはつまり、和音の使い方が独特なんですよね。和音の繋がりも独特。山の斜面とでもいいますかね、一つ所に留まることなく、グングンと斜面を歩いていく様に色彩はばら撒かれ、気付いた時には聞いているこっちの衣服までその色に汚されてしまっているという不思議な感覚。

井の頭公園の露天売り、胡散臭い見てくれの、そいつの売っている絵が恐ろしく綺麗なヒスイ色のモヤモヤだった時のハッとした気持ち、そんな感覚を味合わせてくれる音楽です。

是非、彼の絵の具バッシャーンを、みなさんに体感して貰いたいです。

それに対して、僕はquizmasterというグループで音楽をやる時には色彩感にこだわっていますけれど、1人でやる時には、かなりシンプルでミニマルな色使いになってきているかと思います。

前述の調性という名前のお家からそれほど遠ざからずに、鮮やかになりすぎない色彩で言葉を際立たせようとするのが、今の僕がやろうとしている事なのかも知れません。

自分が聞いて育ってきた音楽の影響のせいなのか、何故だか、ストーリーだてて理論的に次々に展開していく音楽的技法の中で、自分の自分らしい表現に行き着く事ができません。

その代わりに、繰り返される青の連続の中に、一点の赤を見つけた時に、言いようの無い恍惚を憶える自分がいるのです。

僕は自分なりにその感覚を追求していこうかと思っています。

8/9 juke joint西麻布
(solo)
虹、路地裏に
友達を教えてくれ
嘘っぱちナポレオン
代官山フルーツ事件簿
暗闇に火をつけて
(w/icon girl pistols)
ハートビートが転がってる
張りぼて警察官の死
正義の少年
モダンライフへようこそ
グッバイドーナツ自由の女神

2曲目の「友達を教えてくれ」という曲は書き上げたばかりの、11分に渡る長たらしい曲です。この曲の主人公の気持ちを代弁する意味で主人公の目線で歌う歌詞ですが、僕自身の思いだと誤解されたようで(笑)、今後この曲をやるときは、MCで誤解が無いように説明してから始めようと思いました。

次回ライブは明日13日火曜日、下北沢モナレコードにて20時半くらいに出演します。